- インターエデュPICKUP
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投稿者: こちらですね (ID:9c5/M8WsF5U) 投稿日時:2021年 10月 29日 12:02
タイトル、カムカムエブリバデイですね。
深津絵里さんに期待、予告見ましたがイケメン枠不明。
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【6580183】 投稿者: つづき (ID:BFPrSuSLoGs) 投稿日時:2021年 12月 06日 13:20
終戦直後の人口ピラミッドはこちらで見れます。
https://synodos.jp/opinion/society/20164/
当時の若い男性、本土では、同世代の女性の半数位しかいない。
地上戦があった沖縄はもっと凄くて、20代の男性は女性の1/5位しか生き残ってない。 -
【6580280】 投稿者: わからないけど (ID:s.ps.GoLkd2) 投稿日時:2021年 12月 06日 14:55
あの時代にお手伝いさんって、いくら良いとこのお嬢さん出だったとしても、雉真家の跡取りの嫁に迎えられるものなんですかね。
女中上がりって言葉があるけどそれはなんだか後妻さんの場合っぽいし。
両親もそこのところどう考えて若い女中にしたのか。
それにしてもこの雪衣って人は随分と目立ってたから何かありそうな予感。。 -
【6580322】 投稿者: radio (ID:ro3kwRRDfQ6) 投稿日時:2021年 12月 06日 15:39
雪衣さんは良家のお嬢さんだそうです。美都里さんは勇ちゃんのお嫁さんとして喜びそうな感じがしますね。
私も不動産屋が気になりました!あれ、たちばながあった場所ですよね。金太さんが亡くなって、誰もいなくなったから分取られてしまったのでしょうか。雉真のお父さんは小せえ商店街の小せえ土地はどうでも良かったのかな。
きぬちゃんに会えて良かったです。きぬちゃん家族は京都に疎開したから助かったのかもしれませんね。京都は被害が少なかったみたいですから。浅越ゴエのお父さんも久々に見ました。お婿さん、体操のお兄さんでしたね!朝ドラ受けで華丸さんが騒いでましたね。 -
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【6580787】 投稿者: 残りの若い男性 (ID:FkPGcP3Pqb6) 投稿日時:2021年 12月 07日 01:57
結核、肋膜炎、痔、強度の近視、精神疾患があった場合はなどは徴兵されませんでした。昭和19年にもなると40代の男性も徴兵されましたが、上記の人たちは銃後の守りだったはずです。
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【6580789】 投稿者: 確か (ID:aOLPntUH0FI) 投稿日時:2021年 12月 07日 02:20
>基本的に徴兵が免除されたのは病弱など兵士として使えない人間は当然として、軍需産業の熟練工(以前は「熟練工が徴兵されて生産に支障を来した」と言われることが多かったのですが、最近の研究では本当に末期になるまで熟練工が徴兵される事は殆ど無かった事が判明しています)、理系の学生などは徴兵を免除されています。
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【6580791】 投稿者: 確か (ID:aOLPntUH0FI) 投稿日時:2021年 12月 07日 02:40
こちらが詳しい。
>【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?
【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。
この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。
充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。
さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。
例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。
1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者
つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
また工場の熟練労働者も対象となっています。
但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。
1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
この制度も1944年から開始されています。
これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。
また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。
これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。 -
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【6580796】 投稿者: または (ID:O/pwUdq7y9k) 投稿日時:2021年 12月 07日 03:15
無事に帰ってきたのでは?
疎開早々に見初められて、その後出征したけれど、戦後普通に帰って来て話がまとまった、とか。
まだ子供も生まれていないようだし。
もしくは、国語学者の金田一なんとかサンの自伝に「徴兵を逃れるべく、検査でズルをしたら免れた」とあったけれど、彼の場合は普通に検査に通らなかった、とか?
きぬちゃんより2~3歳年下?
昭和3年生まれくらいが行かずに済んだライン?
他の朝ドラの中には、そこを丁寧に説明するのもあっただろうけど、今回は作者自身がもしかしたら設定の疑問に気づいていなかったり?
ま、都合よくすっ飛ばすジエットコースター朝ドラでもあるからね。 -
【6580799】 投稿者: 確か (ID:TNg.M6YkYC2) 投稿日時:2021年 12月 07日 03:58
大正時代には脚気や結核で亡くなる人も多かったようですよ。
海軍は潜水艦内でも育つモヤシを食べていたから、脚気を予防できたのですよね?
>脚気による死亡者数がピークとなった大正12年にはなんと2万6796人もの人々が1年間に亡くなっていた。
明治・大正期に脚気が蔓延した大きな理由は、「軍隊」にあった。明治の世となり、政府は西欧列強に追いつくため「富国強兵」と「殖産興業」をスローガンに掲げたことはご存じのとおり。
特に富国強兵策として明治6年に「徴兵令」を公布し、全国の農村から若者を集めた。その際政府は、若者たちに対し軍隊に入れば1日6合の白米を食べさせると約束したのである。
この条件は当時の農村の若者たちにとっては実に魅力的だった。御一新を迎えるまでは年貢年貢で締め付けられ、ほとんど白ご飯を食べられなかっただけに、それが毎日腹いっぱい食べられるとあって農家の次三男坊は喜んで軍隊に飛び込んだ。そして、白ご飯を食べまくった。このことが脚気患者を著しく増やす原因となった。
日清戦争(明治27年)では約20万の兵を動員したが、その2割までが脚気患者だった。これは公式に認定された数字で実数はもっと多いとみられている。しかも、患者の大半は陸軍の兵であった。海軍のほうはビタミンの存在にこそ気づいていなかったものの、偏った栄養摂取が脚気の原因であると考え、早くから兵食改革に乗り出していた。そのことが功を奏したのである。
一方の陸軍は、脚気は伝染病の一種で空気感染によって起こるという東大医学部が唱えた説を頑なに支持していて、その後も兵らに与える食事に対しなんら対策を講じなかった。
>日本において、結核はかつて「亡国病」と呼ばれるほどに罹患者が多く恐れられた病です。明治後期から戦後の昭和25(1950)年頃まで、毎年10万人以上が結核によって死亡していました。
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