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【7395307】私大と数弱思考の問題点を考える

投稿者: 安宅慶應教授の弁より   (ID:IqWEhfoLn4k) 投稿日時:2024年 01月 31日 19:19

私大の雄である早稲田より、何故三流国立大学の方が修了率が高いのか?

高校カリキュラムと大学受験について考えるスレです。

大学生の8割はDSの素養を持っていたほうがいい〜と、慶應教授の弁


削除スレより考えてみよう!

DSカリキュラムは、各大学で履修コースの名称は様々ですね。
例えば、データサイエンスの基礎レベルである「リテラシーレベル」なら 早稲田は、「リタラシー級」との名称

また、「リテラシーレベル」の差別化として、【独自の工夫・特色を有する教育プログラム】の【リテラシー『プラス』】の認定があります。

リテラシー『プラス』認定大学  
・東北大
・群馬大学 など


参考にまでに

◆群馬大学
(DSリテラシー 【プラス】)レベル
共同教育学部(教育学部)
定員数 190名
履修者 201名
修了者 199名


◉修了率 99.0%


◆早稲田大学
(DSリテラシー)レベル
2017〜2020年(4年間)
教育学部
定員数 3,840名
修了者 110名

◉修了率 99.0%


◆早稲田大学
(DSリテラシー)レベル
2017〜2020年(4年間)
教育学部
定員数 3,840名
修了者 110名

◉修了率 2.9%

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  1. 【7415023】 投稿者: 履修だけでは無理  (ID:FRUxDz3.MHI) 投稿日時:2024年 02月 24日 23:23

    > ましてや一般科学たる哲学(これもイデオロギーだ)が、特殊科学たる自然科学に連関せずにはおるまい。

    君は哲学を人間の側面でしかみれていないから視野が狭いんだよ。哲学には事物の根源のあり方や原理も含まれていて、それを考察するには自然科学系の知識が必要不可欠である。だから哲学者になるには、人文科学、社会科学だけでなく自然科学を含めた幅広い一般教養を身に付けておかなければならない。
    君は高校時代に哲学に関心があったようだが、法学の道に進んで正解だよ。数弱では片手落ちだからまともな哲学者にはなれない。もし自然科学の会議に哲学者を参画させるなら、大学受験に数学が課されない私立文系出身者は排除し、数学が課される国立文系出身者に限定すべきだろうな。

  2. 【7415028】 投稿者: 関西人  (ID:WteUly/hJaQ) 投稿日時:2024年 02月 24日 23:33

    哲学者の永井均氏は塾高出身だけど、独特。自然科学の素養が全く無いわけではなさげ。

  3. 【7415044】 投稿者: 関西人  (ID:WteUly/hJaQ) 投稿日時:2024年 02月 24日 23:59

    エンゲルスの『自然の弁証法』は名大理系の彼にうってつけの書物だと思う。

  4. 【7415046】 投稿者: 履修だけでは無理  (ID:FRUxDz3.MHI) 投稿日時:2024年 02月 25日 00:02

    > なぜなら、そうした君の所論もまたイデオロギーの表れ(産物)であるからである。

    わかってないねえ。問題はイデオロギーじゃないんだよ。前にも言ったが、意義のある議論にするには、現実を直視し現実を受け入れることから始めなければならない。でも君たちは現実を否定し、思想や主義(=イデオロギー)から入っていくだろ。だから現実から大きく乖離したファンタジーの世界の話にしかならない。実現しそうもない案をいくら議論しても時間の無駄でしかない。現実から議論を始めていれば、イデオロギーによって進める方向は違っても実現可能性は失われない。
    自然科学の研究者は、実際に起こったこと、五感で感じたこと、測定で得られたことを重視するから、現実を無視してイデオロギーから議論に入っていくことはしない。議論をあらぬ方向へもっていくのなら、日本の哲学者を自分たちの議論に参画させないのは当然である。

  5. 【7415051】 投稿者: 履修だけでは無理  (ID:FRUxDz3.MHI) 投稿日時:2024年 02月 25日 00:09

    > そのような意味で、唯物論は自然科学とまったく土台を同じくする。

    こういうのは、自然科学をそれなりに学んだ人がいう言葉だよ。君が言ってもなんら説得力を持たない。まずは高校数学の教科書を開いて、自然科学を一から勉強しなさい。

  6. 【7415052】 投稿者: お答えする  (ID:1mYdWQWYmTM) 投稿日時:2024年 02月 25日 00:11

    たしかに梅本克己も、エンゲルスの『自然弁証法』(岩波文庫)、とりわけ『サルの人間への転化における労働の役割』を入門者に薦めている。

  7. 【7415101】 投稿者: 履修だけでは無理  (ID:wZb1zeQ5aYY) 投稿日時:2024年 02月 25日 07:28

    > 私は、君のそうした珍論もまた、君ご自身のイデオロギーの産物だと指摘しているのである。

    現実を直視し現実を受け入れるのもイデオロギーだと言いたいんだろ。それならそれで結構。でも唯物論だの観念論だのそんなイデオロギー論争から始めていたら、いつまでたっても現実的な解は導けない。何かしらの前提条件はおくのは会議のコンセンサスだよ。イデオロギー論争したければタコツボの中で延々とやってもらえばいい。

  8. 【7415102】 投稿者: 三流理系にお仕置きよ  (ID:XwlCWBwgH3k) 投稿日時:2024年 02月 25日 07:32

    >わかってないねえ。問題はイデオロギーじゃないんだよ。前にも言ったが、意義のある議論にするには、現実を直視し現実を受け入れることから始めなければならない。でも君たちは現実を否定し、思想や主義(=イデオロギー)から入っていくだろ。だから現実から大きく乖離したファンタジーの世界の話にしかならない。実現しそうもない案をいくら議論しても時間の無駄でしかない。現実から議論を始めていれば、イデオロギーによって進める方向は違っても実現可能性は失われない。自然科学の研究者は、実際に起こったこと、五感で感じたこと、測定で得られたことを重視するから、現実を無視してイデオロギーから議論に入っていくことはしない。
          
    測定行為はさまざまな方法論によるものが含まれる。色や形、音、匂いなど五感で感じるものをさまざまな手順で観測するものもあれば、装置により数値のみで表わされるものもある。
    それと、単なる「実際に起こったこと、五感で感じたこと、」は違う。
    まず「実際に起こったこと」は観測者の主観的な判断であって、万人共通の認識ではない。観測者の主観によって起こった事実の報告は異なる。
    「五感で感じたこと」は感覚与件と言うが、これも観測者の主観によって微妙に異なり万人共通の認識ではない。
    いずれも、観測者の主観的なファンタジーによる影響は免れない。
    唯一、特定の方法論によって測定された結果だけは誰が測定しても同じ結果が出るという意味で共通の事実だが、これには方法論による理論負荷性が付き纏う。つまり、測定結果は測定の方法論というイデオロギーの負荷性を帯びている事実なのです。因みに、これとは別の方法論での測定では異なるイデオロギーの負荷性を帯びることになるので、結果も異なってくる。
    以上のようにイデオロギーや主観のファンタジーが込められていない現実などありはしないのです。
    つまり、現実を何らかのイデオロギーやファンタジーと切り離して認識することなどできないのです。
    これを現象学的に記述すると、認識とは、主観的部分(ノエシス)と対称的部分(ノエマ)が志向性で結びついた全体なのです。

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