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投稿者: 失笑 (ID:UOpGQQ6Jofo) 投稿日時:2005年 07月 31日 20:11
旧聞になりますが、来年誕生する一貫校も扶桑社教科書を採用するそうですね。
なんて取り返しの付かないことを....
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【147364】 投稿者: ミラボー橋 (ID:cmlMsSxLO8c) 投稿日時:2005年 08月 06日 22:48
歴史ファン さんへ:
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丁寧なレスありがとうございます。
胸を悪くするようなあらし、罵詈雑言の類には辟易としますが、冷静なレスには
ほっとします。
> 何度も書いていますが、
> 「美点を際立たせるために戦争をしたわけではない」という自明の理を考えれば
> 当然のことかと思います。
> 「逆も真なり」が成立しない命題として捉えるべきではないでしょうか?
「美点を際立たせるために戦争をするわけではない」ことは当然として、そこを
出発点に
「では、なぜ、誰によって戦争が始められたのか」、
「戦争をすることにどのような合理性が見いだされ、誰が利益を受けたのか」、
「国策としての戦争がどのように決定され国民一般に受け入れられたのか」、
「結局どうしてあのような失敗をしてしまったのか(戦後処理を含め)」、
「戦後世代として戦争という失敗から何を学びいかに総括し、将来にかけて何を
なすべきか」
というような考察に情緒に流されず冷静かつ誠実に挑む勇気を持ち、子供たちに
もそうなってもらいたいと願うのです。
> >学徒兵の手記等を読むと、自己の役割に懸命に誠実であり続けようと努力し、
> >生死の意味に真摯に対峙する心のありように人間の尊厳を感じ、率直に
> >美しいと感じますが、個々人の崇高さの文学的修辞ゆえに何かを見失うことに
> >ならないかには危険を感じます。
>
> ミラボー橋さんは、見失ってしまいましたか?
> まず、そんなことはないでしょう。
> だとすれば多くの人々が、同じように感じるはずです。
> 美しいから戦争がしたいというような論法というのは
> よほど何かを見誤らない限りあり得ないと思いますよ。
私は見失っていたと思います。少なくとも、「戦争はそんなに悪くはない」と漠然と
思っていた時期がありました。(以下独白的散文ですがご容赦下さい)
小学校低学年の頃まで私は「戦争の好きな子供たち」でした。
漫画やテレビの中の戦争は常に勇ましくかっこよく、人物は悲しくも美しい人でした。
勇敢な悲劇のヒーロー=正しい日本そのもの、力及ばず倒れたが正義はこちらにありと
信じていました。かつて海軍爆撃機搭乗員だった伯父に戦争の話をせがんでははぐらか
されるのが不満でした。
そのころの少年誌にはいろいろ戦争を扱った佳作がありましたが、中でも園田光慶の
戦争劇画が嫌いでした。彼の描く戦争は少しもかっこよくありませんでした。
英雄のはずの兵士は泥水の中をぼろ雑巾のよう這いずり回り、虫けらように死んで
いきました。戦争の話をせがむ私をみつめる伯父の悲しそうな目の意味を少しずつ
考え始めました。戦争のきれいごとでなく、無様でかっこ悪い面を見失っていたことに
初めて気づきショックに混乱し、悶々としたことを覚えています。
戦争の本当の意味を少しずつ考え始め、当時のベトナム戦争の報道を見方も変わって
きました。
私も学校の授業で戦争について教わったことは全く記憶にありません。
かわりに当時の少年誌には、戦争を扱った漫画、読み物、特集記事などかなり多く、
今とは全く違った雰囲気がありましたね。
> > 戦争と平和、成功と失敗を積み重ねが歴史です。
> > おそらくこれからも多くの失敗があるでしょう。
>
> >その中で、戦争は政治の失敗、人間の愚かさゆえの最大の失敗であり
> >個々人の個別具体的な美しさをすべて飲み込んでも糊塗出来ない醜さが
> >
> >あることをまずもって子供たちに理解させるべきだと考えるのです。
>
> 子供は身近なものからしか理解できないと思います。
> 大人である我々でさえ、国家とはなにか?というような質問に即答できるでしょうか?
> たとえ答えられたとしても、今度はそれを子供に理解させなければならない。
>
> 忌み嫌うことだけを教えれば、子供たちは考えなくなるのではないでしょうか?
>
> 戦争は嫌だ、戦争をしてはいけない、戦争は醜いといったことだけを先に教えることは
> すなわち、交戦した相手国または自国=悪という単純この上ない理論になりやすいように
> 思います。
>
何も国家論や社会契約論を子供に理解させる必要があるとは思いません。
人間はおろかで失敗するもの。その失敗の最たるものが戦争であり、数千年間、いまだに
失敗を続けていることを子供に語ることがそれほど困難でしょうか。
戦争は失敗をする人間の原罪のようなものかもしれません。しかしそれを超克する勇気と
賢さを人間は備えているはずであり、それを本当に具体化することに知恵を発揮していく
ことが新しい世代への希望と語ることがそれほど難しいことでしょうか。
「戦争を忌み嫌う」とは抽象的概念であり、それだけを子供の頭の中に外部注入することが
そもそも可能とは思えません。「結局戦争とは何なのか」を、情緒に流されない文脈でもって
子供が自分自身及び周囲と考え語り合う知的過程を経験した結果として自然に心の奥底に
わいてくるものと思います。(私の場合はそのきっかけが劇画だったわけですが(汗))
これは、「作る会」がおりにつけ強調する「愛国心」についても同様と思います。
情緒に流されない内省的な知的作業を通じ戦争を考える経験をつめば、おっしゃるような
「戦争をした自国または相手国は悪」と簡単に片付けてしまうような皮相で単純な断定に
はまり込んで安心してしまうような結果にはならないと考えます。
むしろ、「作る会」の教科書を通低する「日本よい国無謬の国という概念の注入により愛国心
を涵養する」という側面は、人間の知と感情に対するあまりにも単純な認識であり、ある種
傲慢さと危険を感じます。
> 敵味方であっても同じ人間で、痛みも喜びも同じように感じる→同等であるという感覚が
> あってこそでは、この愚かしさは何なのかということを、見る必要があるのではないで
>しょうか。
この点は、私の「戦争という人間の愚かさの原罪としての失敗に対する冷静な考察」という
意識とほぼ同じ認識と思い、同意します。
> 語るということがなければ、共有も託すこともあり得ないですよね。
> 近代以前の戦争、現代の戦争を通じて、その目的の変化や形の変化を知り(違いを知る)、
> さらに共通項である愚かさ、醜さを知ること。
> 数千年の歴史の中で進歩してきたありとあらゆる事柄と、
> いまだにまったく同じところに留まっている人間の業と言ってもよい部分を対比させる
> ためには、とにもかくにも知ることしかないように思っています。
このスレを見ても感じますが、語り合い議論するということの基本ができていない
人が多すぎますね。教科書問題もさることながら、それこそ「建設的で知的な大人の
議論の作法」を学校で教えるべきかもしれませんね。
>
> 伝えることに制限や加工を加えるのは、この場合、大きな誤りなんじゃないかと。
> 基本的にはどのようなこともそうなんですが、
> とくに戦争については、大人の意見がまとまらないこともあって、
> 結果として伝えるべき量が少なくなりすぎていると考えています。
中略
> 先にも書きましたが、教科書だけが問題ではないと思います。
> つくる会の教科書はちゃんと読んだことがないので、論じることはできませんが、
> 過去の歴史教科書に問題がなかったかといえば、それはまた違うでしょう。
> どこかで話題になってましたが、ナポレオンやキリストがでていたとしても
> さほど詳しいわけではないですし、名前だけといってよい程度しか記述はなかった
> ように思います。
>
> 仰るとおり、時間をかけて見る必要があると思います。
> できれば、反対するだけでなく、他社の教科書も含め、育てていく方向に持って
> いきたいものですね。
おっしゃる通りと思います。
また、歴史の常として書き手の解釈や心情がある程度反映されることはやむを
えない点もありますが、特に「作る会」教科書の場合、(少なくとも現行版では)
書き手の過度な情緒的思い入れや、一般に認められていない説への肩入れ、
歴史教材としてはあまりにも初歩的単純なミス等の面で、「伝えることへの制限や
加工」が中等教育の標準教材としての許容限度を超えていると考えます。
書き手の政治心情への評価とは別の、純粋な学問的、ISO9001的(笑)疑問です。
> やはり基本は親でしょうし、子供を見守る社会の視線なのでしょうね。
> 我々は社会を作る生き物なので、学校という集団教育の場を持っているわけですが、
> なにも歴史教科書に限らず、いろいろな面で構造的な限界が来ているように思います。
>
> 関川夏央さんだったか、北朝鮮に関する記述の中で(「退屈な迷宮」だったかな?)、
> 「20歳のバイブル――北朝鮮の200日」(高野生/情報センター出版局)という本に触れ、
> 「青年たちは学校に行っても悲惨だが、
> 行かなくてもやはり悲惨であるという、現代日本をはからずも体現している本」といった
> 趣旨のことを書いているのですが、
> 学校の構造を変えていくと共に、社会の子供であるという認識を持たなくてはと思います。
> よその子に話しかけたり、注意するのは勇気が要りますけどね(^^ゞ
> でも、いろいろな大人に揉まれることもいい経験なのではないかと。
>
> 失敗を恐れて前進を躊躇するよりは、やってみてどうだったかを考えたいなと思います。
村上龍氏の著作(確か「希望の国のエクソダス」、間違っていたらごめんなさい)に
「日本は何でもあるが希望だけがない」というくだりがありました。
敗戦、戦後の経済成長、バブル崩壊という二度目の敗戦以降の停滞、アジア諸国の
成長(とりわけ中韓)という歴史の流れの中で、日本全体に崩れた優越感と閉塞感が
蔓延し、昨今、それをナショナリズムの高揚で解消しようという危うい気分が広が
っているように思えます。
戦争に限らず、およそ失敗から学ぶ謙虚な姿勢を失った集団が行き着く先は改めて
いうまでもないでしょう。米国がいまだに核兵器信仰から脱却できないのは、彼らは
原爆使用が失敗だとは絶対に認められないからかなどと、広島原爆忌の今日、考えて
いました。
ボブディランの「What did you learn in school today(邦題:学校で何を習ったの)」
の歌詞が、妙に現実的に思える今日この頃です。
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【147389】 投稿者: 歴史への姿勢 (ID:v3cqLJ79sbo) 投稿日時:2005年 08月 06日 23:09
ぬるぽ様
>個人的にはこの本に世界史に関する副読本をつけることで上手く歴史を網羅できるのではないだろうかと思います。
どちらが副読本になっても、この教科書だけでは無理、と言う事ではないでしょうか。
そうなの?様
すみません。用事があり、先ほど戻ったところで本屋には行けなくて、
必ず近いうちに確かめてきますので、どうぞあしからず・・・。
平和ボケ様
>一方、国家としてのアメリカが日本のことなど全く考えていないのは周知の事実ですし、いまのアメリカべったりの姿勢では、日本の将来は暗いです。
そういう意味では現実路線の国策として中国や韓国とどう上手につきあってゆけるか、という方向で外交に力をいれるほうが軍備増強よりはるかに重要でしょうね。
やはり島国で鎖国が長く外交の経験が短いこと、日本人の性質などが、外交下手の理由でしょうか?
日本は一体中国やヨーロッパに、それぞれ何世紀に渡って文化や医学など伝えて貰った(真似して来た)か、それに比べ、アメリカは60年ですよね。
甘い事を言っているように聞こえるかも知れませんが、勿論アメリカにも学ぶ事も多かった訳ですが、やはり個人的に中国やヨーロッパには決して忘恩の気持ちを持つべきではないのでは、といつも思っています。
この掲示板でさえ、こんなに賛成反対で、議論から論争へということもあるのに、特に今の中国は難しそうではありますね。
>恐ろしいのは、それにもかかわらず、戦争が全体主義ときってもきれないものである以上、
一度国家が戦争方向に統制されてしまったら、良識ある市民の声など消されてしまうということでしょう。
個人が「自分の利益を考えて」殺人をすればそれは犯罪ですが、国家単位で行えば「国益を考えての政策」になってしまうのですから。
そういう意味では、現在の中国、ましてや北朝鮮、古くはスターリン時代のソ連の体制なども同じようにとんでもないことだと思います。
>そういう危険さ、悲惨さをかんがえたとき、
「戦争の良い面」などをわざわざ同等にあげつらう必要がどこにあるでしょうか。
長くなるので引用はここまでにさせて頂きましたが、特に上の点とその続きに賛成です。
続きも全部、言いたかった事が詰まっている様な気がします。
私の父は広島で中心から少し離れたところで間接的に被爆しました。
今になって一緒にいた同期の方も父も、次々にガンになって入院したり亡くなったりしています。
父は歳が歳ですので、諦めるという気持ちになろうと努めていますが、直下で亡くなった身内の方達や、世界中、戦争で残された方達は「戦争があったけれどこんないい面もあった」と言われても、心情的には決して一生納得できないものだと言うのが私にはよくわかります。
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【147390】 投稿者: 歴史への姿勢 (ID:v3cqLJ79sbo) 投稿日時:2005年 08月 06日 23:13
大変、訂正します
>忘恩の気持ちを持つべきではないのでは→持つべきなのでは
です。 -
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【147396】 投稿者: 歴史への姿勢 (ID:v3cqLJ79sbo) 投稿日時:2005年 08月 06日 23:27
感謝の気持ちを持つべき、つまり訂正しなくて良かった訳ですね。
混乱して申し訳ありません。 -
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【147400】 投稿者: 多様な意見、視点を守ることの大切さ (ID:PmYb79M/WD2) 投稿日時:2005年 08月 06日 23:20
上の娘が今年私立中進学、真ん中の娘が小5、下が小3の昭和30年代後半生まれの現在40台半ばの父親です。父は大正二桁で東京大空襲経験者、母は昭和一桁前半で満州引揚者です。
こちらの一連の書き込みを拝見して思うのは、戦争の悲惨さを実体験した人、そういう人を肉親に持って体験を共有している人が徐々に減っているのかなあということです。
父はほとんどに東京大空襲の語ってくれませんでしたが、昭和20年3月10日夜、劫火に追われ命からがら高台の森に逃げ延びて、燃え行く劫火を呆然と眺めていたそうです。生きながら人体が焼かれる煙にむせながら思ったのは「絶望」と「虚無」であることは、何度も繰り返していました。
死んだ母方のニヒリストの伯父も大正二桁で学徒出陣で京都から南方戦線へ引っ張られて奇跡的に戻ってきたのですが、祖母にいわせると人が変わってしまったととのことでした。
私は肉親、親戚のほとんどが戦争体験者でしたので、戦争に興味を持ち、戦記、軍事、国際政治論関係の本を中学生頃から読み漁りまして、戦争は外交の一手段という、戦争必要悪論は理解しているものの、私自身の考え方の根本には戦争とは多くの国民に負担と犠牲を強いるものであってやってはいけないことなのです。
敗戦直後は全員が戦争体験者ですから「戦争なんてこりごり」と皆思っていたと思うのですが、60年経った現在、体験者が減ってきて、形而上的に「戦争は外交の一手段としてありうべきもの」という考えが台頭してきたように思われてなりません。
前置きが長くなりましたが、私の扶桑社版と手持ちの山川版を読み比べての感想ですが、全体を通じて扶桑社版は持ち上げたい人や事項とそれ以外の記述の量にむらがあるように思えたことと明治以降、特に日清、日露戦争の評価についてロシアの南下政策に対する日本側の正当防衛であることが強調されているように思われました。
日華事変から敗戦にいたる事項でも禁油をはじめとしたABCD包囲網に対する防衛戦争、欧米各国の植民地解放戦争であることが強調され、山川版他では日本の外交政策を独善的孤立化外交と評価しており、「作る会」のいう自虐史観であると思いました。
私は日本史の教科書に扶桑社版を使おうが、山川版を使おうがたいした問題ではないと思っています。大切なのは教える側が教科書の記載をベースに、これ以外にもこういう考えもあると多元的評価の重要性を伝えることだと思っています。大学入試でも東大他、それなりの難易度の学校の歴史の記述式の問題は歴史的事項の多元的評価なくしては答案が書けないいと思います。
私が恐れているのは、こちらに書き込まれた方の多くが憂慮しておられるように、戦前の日本や隣国のように政府にとって都合のよい単一的な歴史観を押し付けられてしまい、物事を多面的に評価できないようになってしまうことです。
その意味において、扶桑社版を全面的に否定するのはいかがなものかと思う一方、作る会のいう自虐史観的な考え方を授業で取り上げることを禁止されるような世の中にだけはなって欲しくないと思う今日この頃です。 -
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【147404】 投稿者: 小学生と中学生の親 (ID:VTmn1AJYA/Q) 投稿日時:2005年 08月 06日 23:26
なんか歴史認識のようになっているこの掲示板ですが…。
今上の子が習っている社会の歴史の教科書(東京書籍)を読んで
びっくりしたことを覚えています。
日本の歴史なのに、人物として取り上げられているのがアイヌの
シャクシャインに、柳宗悦(朝鮮人に同情的な人)、そしてなぜ
か金大中前韓国大統領ですよ。
日本の歴史の節目節目には、日本のことを書く前に必ず朝鮮王朝
の話が置かれているし、何といっても、大和朝廷の指導者として
出てくるのが「大王」で、しかも「だいおう」がメインの読み方。
実際は「おおきみ」なのに。「天皇と呼ばれるようになった」、
その一文が無いのにいきなり次は推古天皇。
この教科書は、教材として正しいの?
曖昧な歴史資料については賛否両論取り上げ、歴史の流れを重視
する扶桑社の教科書の方が、まだ「教材として」は正しく扱えそ
うです。
高校受験やその先を考えた時、扶桑社の教科書で学んだ者が不利
になるとは、実際に読んでみるとどうしても思えないのですが。
うちの子たちは、教職員組合の政治活動の材料にはさせたくあり
ません。大阪書籍で有名になった、教科書利権にもね。 -
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【147439】 投稿者: 責任をあやふやにする国と国民 (ID:bhfCRrEx/pI) 投稿日時:2005年 08月 07日 00:17
平和ボケ さんへ:
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> 実際に戦争もソ連抑留も経験した家族からきいた体験を通して学んだことは、
> 「戦争の実態は惨めで悲惨なものであった」そして「国家」も「天皇」もいやおうなしに>生生しく庶民の日常に押し付けられたものであった、ということ。
> 必死に戦ったといっても、決して「勝利を願って」ではなく、ただただ「生き抜くのに必死だった」ということです。
自分が接触した一握りの人の意見だけから、それが全てのように論じるのははなはだアンフェアーであると感じます。
私の両親は終戦時には旧満州で工業物資の製造工場を建設途上で、その工場を完成させ安定操業させるために戦後2年間満州に抑留されてから、日本に引き揚げてきました。
幼い姉を抱えて筆舌に尽くしがたい苦労をした様ですが、天皇陛下は敬っていました。
戦後も毎年新年の一般参賀には皇居に出かけていました。
辻正信という政治家(旧陸軍参謀)をご存知ですか。
私は彼は問題の軍人だったと思っていますが、戦後選挙に出て参議院議員に当選していますね。
これを見ても一方的な被害者意識を持った国民ばかりではなかったというのが分かります。
当時の一億総懺悔という言葉が示すように国民皆で反省するという気運だったように思います。
個人の責任の程度と所在を日本人自身の手で明確にしなかったことは、良くなかったと私個人は思っていますが。
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【147453】 投稿者: 責任をあやふやにする国と国民 (ID:bhfCRrEx/pI) 投稿日時:2005年 08月 07日 00:35
訂正
辻正信⇒辻政信
参議院議員に当選していますね。⇒衆議院議員及び参議院議員に当選し通算九年間務めた。
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