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投稿者: 失笑 (ID:UOpGQQ6Jofo) 投稿日時:2005年 07月 31日 20:11
旧聞になりますが、来年誕生する一貫校も扶桑社教科書を採用するそうですね。
なんて取り返しの付かないことを....
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【147734】 投稿者: 本当に・・ (ID:JhI.MX.B51A) 投稿日時:2005年 08月 07日 19:16
本当に・・様 さんへ:
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> 貴方もさんざんどっからか拾ってきたような
> コピペ貼ったりしてたでしょ?
> 【特定の国名を挙げる】のはルール違反じゃないでしょ?
> 都合の悪い事は書くな、ということですよねぇ。
>
> かの国の「国名」なしには語れない問題でしょ?
>
ごめんなさい。「こぴぺ」ってなんですか?
そういうものを貼った覚えはないですが・・・。
どなたかと混同していらっしゃると思いますよ。
特定の国名を中傷的に挙げるのはやめるべきと言うことです。
歴史の事実を書くのに国名を挙げるのが問題ないのは当然ですよ。
恥ずかしいレスばかりだと思われたくないから参入しただけです。
そしてHNを統一なさってくださいね。 -
【147768】 投稿者: … (ID:XrawacC6eS2) 投稿日時:2005年 08月 07日 20:35
ご存じない方が多数のようなので、こぴぺですがどうぞ。
↓
右翼団体の構成員は在日韓国・朝鮮人
彼らの目的は、「愛国心」のイメージを落とすこと。
「愛国」という言葉を聞くと、右翼団体が不気味な街宣車に乗り、公衆の迷惑も考えず大音量で軍歌を流し、または大声で怒鳴りちらしている姿を想像する人が多いのではないでしょうか。そしてそのせいで、「愛国心を持つ人」=「[削除しました]・悪い人」というイメージを持つ人も少なくないようです。
しかし (日本のNHKにあたる)イギリスのBBC放送が、以前日本の右翼団体を取材し、このような報道をしています。
「右翼の主張は天皇制復活、日本民族の国粋主観等だが、実際の構成員が国粋主義者とは相容れないはずの韓国・朝鮮人、また天皇制という身分階級の下では最下層に位置され最も身分制度の被害者であったはずの被差別出身者で90%を占めている。はっきり言ってこの取材で、彼らの真の目的を知ることは出来なかった。」
では彼らの目的は一体何なのでしょうか?主義主張はともかく、たくさんの人々に威圧感を与える街宣車に乗り、誰が聞いても騒音にしか聞こえない音量で軍歌を流したり、大声で怒鳴り散らしたりすれば、人々に主義主張を理解してもらうどころか、イメージを落とすだけなのは分かりきっています。
つまり彼らの目的は、こういった行動をとることによって、日本人の「愛国心」へのイメージを歪めることなのです。そして、本当に日本人の利益や生命の安全を考える「愛国的な人々」のイメージをも落とすことができれば、必然的に、日本人の利益や生命の安全を第一に考えない「愛国的でない人々」が影響力を強めることになり、彼らはそれによって利益を得ることが可能になります。
その証拠に彼らは、ロシアが不法占拠している北方領土については声を大にして叫んでも、北朝鮮による拉致事件についてはまったく言及していません。
参考URL
Korean activist braces for `storm of fascism'
http://web.archive.org/web/20040213232014/http://www.asahi.com/english/weekend/K2001120900069.html
人材コンサルタント業経営 在日コリアンの辛淑玉氏のお話2
http://g_gondawara.tripod.co.jp/jiken/3goku/jiken001015.html
石笛10号 オウム事件特集
http://www.club-kamikaze.net/yamato_ishin/iwabue/10/i10aum.html
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【147812】 投稿者: ゴーマニズム (ID:gTUKytC2Tq6) 投稿日時:2005年 08月 07日 21:46
37ページって最高記録じゃないの?
もう、そろそろいいんでは? -
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【147832】 投稿者: 歴史を正視すべき (ID:mfn1iqdn5Zc) 投稿日時:2005年 08月 07日 22:46
ご存じない方が多いと思いますので、情報提供します。
韓国の歴史教科書が歪曲されたものであることを他ならぬ韓国人が認めています。
この記事は、韓国でメジャーな新聞の一つである朝鮮日報に載った記事です。
発言の主はソウル大学の李教授です。日韓関係のシンポジウムの席上でなされました。
ソウル大教授「日本による収奪論は作られた神話」
「1910年に日本は大韓帝国を強制的に併合した」
「日本は韓国が植民地だった35年間に、韓国の土地の40%以上を収奪し、膨大な米を略奪していった」
これらが韓国が独立後、40年以上にわたり中学・高校の国史教科書に記載されている内容だ。
しかしソウル大学経済学科の李栄薫教授はこうした収奪論が歪曲された神話だと主張した。
李教授「日帝が韓国の米を供出、強制徴収したとされているが、実際には両国の米市場が統合された
ことにより、経済的輸出の結果だった」
客観的に数値で見ても、奪われた土地は10%に過ぎなかったと説明している。
李教授は韓国の歪曲された教科書で学んだせいか、反日感情の根がかなり深くなっていると話した。
李教授「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、
教育されたものだ」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/11/20/20041120000000.html -
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【147835】 投稿者: ぷにぷに (ID:JJWxjypmdas) 投稿日時:2005年 08月 07日 22:38
優秀な方々のご発言に
大変勉強になりましたよー。
自動車ではトヨタが一人勝ちだそうで、
アメリカからの非難が起こらないように
ハイブリッドカーの値段をわざと高くしているんだと(奥田会長)
結局日本の平和外交のためには
省エネのような先端的事業を
支援するのがいいみたいですね。
うちも太陽光+風力発電機導入を真剣に考えています。
がんばれ日本
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【147844】 投稿者: ふーん (ID:qWQrpobDTho) 投稿日時:2005年 08月 07日 23:05
さようなら八木先生フアンの皆様
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【147870】 投稿者: 歴史ファン (ID:lZUkO.rkwTI) 投稿日時:2005年 08月 07日 23:48
ミラボー橋 さんへ
なかなかついていくだけでもたいへんなスレッドですね。
勉強しなくてはと決意しつつ、まだまだついていくのがやっとの状態です。
> > 何度も書いていますが、
> 「美点を際立たせるために戦争をしたわけではない」という自明の理を考えれば
> > 当然のことかと思います。
> 「逆も真なり」が成立しない命題として捉えるべきではないでしょうか?
> 「美点を際立たせるために戦争をするわけではない」ことは当然として、そこを
> 出発点に
> 「では、なぜ、誰によって戦争が始められたのか」、
> 「戦争をすることにどのような合理性が見いだされ、誰が利益を受けたのか」、
> 「国策としての戦争がどのように決定され国民一般に受け入れられたのか」、
> 「結局どうしてあのような失敗をしてしまったのか(戦後処理を含め)」、
> 「戦後世代として戦争という失敗から何を学びいかに総括し、将来にかけて何を
> なすべきか」
> というような考察に情緒に流されず冷静かつ誠実に挑む勇気を持ち、子供たちに
> もそうなってもらいたいと願うのです。
この部分を読んで、気がついたのですが、現在、私がイメージしている歴史の教え方というのは、
たぶん、既存の授業に加えて、
「戦争学」のようなものを同時に教えるべきだというとわかりやすいのかなと思いました。
近代以前の戦争、そして現代の戦争のプロセスから
戦争の仕組みを比較・抽出して、いわばシステム論のような形に持っていく必要があるのではないかと。
5W1H が非常に重要なのはわかるのですが、これには異論がありすぎて、
結果的には、非常に薄めた状態で子供たちに伝えざるを得ない(これまでの状態)。
だとすれば、戦争へのプロセスを理解することはおろか、
かなり良く学習した子供でも、情緒的に「戦争はいけない」と理解するのが精一杯なのではないかと思うのです。
日本の義務教育は中学校までだという要素も、これに拍車をかけているのですけれどね。
結局、戦争という問題の解法は、自分でやってねというあたりで終わってしまっては、
基本的には軍備を是としている他国の方々とお話しする際に大きな障害になってしまう。
良い例が英語なんですが、どんなに英語のできる日本人でも、
俗に言う生きた英語と言われるレベルになかなか到達できないのは、
実は発音なんかより、こういった概念(理論)が呑み込めないことが原因になっていたりすると思います。
必要なのはネイティブ並の発音なのではなく、その言語の持つ考え方(文化)への理解なんですね。
言語というのは、その個人が持つ抽象的概念のレベルによって、
許容範囲が狭くも広くもなるので、こういったことが起きるのだと思います。
大抵のお子さんは高校に進まれるわけですけれど、
この日本において歴史(平和)教育を考えるなら、やはり義務教育中であることが必須ですから、
現在の義務教育期間の設定にも結構、無理があるんだなと気がつきました。
で、先ほどのシステム論(のようなもの)に戻りますが、
これをやる場合というのは、やはり中学生〜高校生くらいでないと無理がある。
(以前から他のことでも思っていましたが、現代では高校までを義務教育とする必要がありそうです)
戦争に限らず、たとえば政治家や官僚の汚職なんかでも、システムとしてみた時にわかることがとても多いのですが、
残念ながら日本ではそういった分析的論理的な方法論が嫌われる傾向があるので
事件の発覚が改革にまで結びつかないケースが多いですね。
なぜ、汚職が起こったか。
例外というのはあると思いますが、プロセスを辿ると、やはりほとんどの場合どこかでルール破りが黙認されている。
(ものすごく端折った言い方ですが、わかりやすさを優先しますね)
ここから演繹できるのは、数あるルールの中でも、いくつかのポイントがあって、
このポイントが何らかの理由で機能しなくなる時に、
組織の持つパワーや資金が悪用されている可能性があるという類推の方法です。
なんか品質管理のQAみたいですけど(笑)。
これを戦争を伝えることに、適用できないものだろうかと思うのですね。
実際できるかどうかなんて、専門家に研究していただくしかないんですけれど、
もしこのシステム論のような伝え方が成立するとすれば、
かなり高度な抽象概念の抽出作業になるはずなので
歴史の授業内容だけの問題ではなく、能力の低下が非常に懸念される国語教育の問題、
義務教育期間の件など、広い範囲の教育関連問題が同時に検討されるようにもなるでしょう。
ある種、マニュアル化された戦争システム論(倫理のマニュアル化に近いかも)+学校での歴史の学習、
これに個々の戦争体験を聞くことや社会科見学、さまざまな本、漫画、テレビ番組などの要素が網羅されていれば、
かなり多角的なとらえ方が可能になるんじゃないかと思いました。
システム論の良いところというのは、誰がとか、どこで(国や場所)といった具体的なことは
ある種の方向を持った単なる記号として扱えることで、
むしろ「当時はどのような認識を元に全体の流れができていったか」に焦点をあてられる。
ホークスさんでしたか、確か仰っていたと思うのですが、
現代の我々から見たその良し悪しにかかわらず
「当時の認識」を知ることというのは、非常に重要だと思います。
そこからしか、分析的な視線というのは生まれないでしょうから。
戦争学的なものを別物として導入するかどうかなどはともかく、
今の歴史教育の問題を見ていると、本質を教える手前で止まってしまっていて、
結局は内容の薄いものになっているように思うので、
教科書問題もいい加減にしないと、「知らない」子供たち、
「考えない」子供たちを増やすことにしかならないように思います。
体感ですけどね、私の時より中味がないというのは、問題だと思ってます。
被爆体験国ならではの歴史教育として、世界に誇れるような中味の濃いものにしたいものですね。
> >学徒兵の手記等を読むと、自己の役割に懸命に誠実であり続けようと努力し、
> >生死の意味に真摯に対峙する心のありように人間の尊厳を感じ、率直に
> >美しいと感じますが、個々人の崇高さの文学的修辞ゆえに何かを見失うことに
> > >ならないかには危険を感じます。
> > ミラボー橋さんは、見失ってしまいましたか?
> > まず、そんなことはないでしょう。
> だとすれば多くの人々が、同じように感じるはずです。
> 美しいから戦争がしたいというような論法というのは
> よほど何かを見誤らない限りあり得ないと思いますよ。
> 私は見失っていたと思います。少なくとも、「戦争はそんなに悪くはない」と漠然と
> 思っていた時期がありました。(以下独白的散文ですがご容赦下さい)
> 小学校低学年の頃まで私は「戦争の好きな子供たち」でした。
> 漫画やテレビの中の戦争は常に勇ましくかっこよく、人物は悲しくも美しい人でした。
> 勇敢な悲劇のヒーロー=正しい日本そのもの、力及ばず倒れたが正義はこちらにありと
> 信じていました。かつて海軍爆撃機搭乗員だった伯父に戦争の話をせがんでははぐらか
> されるのが不満でした。
> そのころの少年誌にはいろいろ戦争を扱った佳作がありましたが、中でも園田光慶の
> 戦争劇画が嫌いでした。彼の描く戦争は少しもかっこよくありませんでした。
> 英雄のはずの兵士は泥水の中をぼろ雑巾のよう這いずり回り、虫けらように死んで
> いきました。戦争の話をせがむ私をみつめる伯父の悲しそうな目の意味を少しずつ
> 考え始めました。戦争のきれいごとでなく、無様でかっこ悪い面を見失っていたことに
> 初めて気づきショックに混乱し、悶々としたことを覚えています。
> 戦争の本当の意味を少しずつ考え始め、当時のベトナム戦争の報道を見方も変わって
> きました。
> 私も学校の授業で戦争について教わったことは全く記憶にありません。
> かわりに当時の少年誌には、戦争を扱った漫画、読み物、特集記事などかなり多く、
> 今とは全く違った雰囲気がありましたね。
そういうこともあるんですねぇ。
それでも、どこかの時点でご自分で気づかれたのですね。
たぶん、大抵はそういうプロセスなのでしょうが、万が一、修正しなかった場合を考えれば
やはり戦争に関する教育というのは重要ですし、改革が必要なのは明白です。
我々の世代のように、現代史を習い損ねるようなことはあってはいけませんね。
今の日本政府には「歴史教育を徹底するために、義務教育期間を12年とする」ってぐらいの
度胸を見せてもらいたいですねぇ。
実は私は「はだしのゲン」が大嫌いなんです(^_^;)。
意義ある本なのはわかっているんですが、美大に行きたかった私としては、どうしてもあの絵が許せなくて(苦笑)。
表現が醜いからとかではなく、絵がヘタなのに腹が立ってしまうんです。
みんなそれぞれ、そういったものはある中で、整理された戦争観を持つためにも
メディア(媒体)というのは、大切かと思います。
確かに以前は今以上に漫画や読み物がたくさんあったと思います。
先日、図書館で驚いたのは、子供向けの「アンクルトムの小屋」がなかったことで、
儲けにならないものは出版できないのはわかるけど、いくらなんでも○○社さん、どーよ?と、思いましたね。
こんな具合に、子供たちの知るチャンスというのは、少なくなってきているのでしょう。
> 戦争と平和、成功と失敗を積み重ねが歴史です。
> おそらくこれからも多くの失敗があるでしょう。
> >その中で、戦争は政治の失敗、人間の愚かさゆえの最大の失敗であり
> >個々人の個別具体的な美しさをすべて飲み込んでも糊塗出来ない醜さが
> >あることをまずもって子供たちに理解させるべきだと考えるのです。
> 子供は身近なものからしか理解できないと思います。
> 大人である我々でさえ、国家とはなにか?というような質問に即答できるでしょうか?
> たとえ答えられたとしても、今度はそれを子供に理解させなければならない。
> 忌み嫌うことだけを教えれば、子供たちは考えなくなるのではないでしょうか?
> 戦争は嫌だ、戦争をしてはいけない、戦争は醜いといったことだけを先に教えることは
> すなわち、交戦した相手国または自国=悪という単純この上ない理論になりやすいように
> > 思います。
> 何も国家論や社会契約論を子供に理解させる必要があるとは思いません。
> 人間はおろかで失敗するもの。その失敗の最たるものが戦争であり、数千年間、いまだに
> 失敗を続けていることを子供に語ることがそれほど困難でしょうか。
> 戦争は失敗をする人間の原罪のようなものかもしれません。しかしそれを超克する勇気と
> 賢さを人間は備えているはずであり、それを本当に具体化することに知恵を発揮していく
> ことが新しい世代への希望と語ることがそれほど難しいことでしょうか。
仰ることは理解しているのですが。
ただ、実際、平和教育として、たとえば中韓に日本が何をしたかを語ると、
(小学校の国語の教科書に題材があったのですが)
大抵の子供が「日本人の残酷さ」を痛感したというような感想文を書いてきます。
そう書くことが大人から期待されているから書く子供もいますし、
みんながそうだから書く、本当にそう思ったから書く、と理由はさまざまですが、
ほとんどが同じ結論に帰結するのですね。
で、その時に私が思ったことは、これをもう一歩進めて、
日本人だから残酷なことをしたのではなく、人間がそういう生き物なんだというところまで
持って行かないと、ちょっと片手落ちなんじゃないかということでした。
あくまで私の考えなので、日本人特有のの残酷性というものがあると言われればそれまでなんですけどね。
しかし、重要なのは、戦争という極限に追い込まれた人間のすることとしての理解なんじゃないかと。
(つまりは自分もそうなんだということですね)
だとすれば、現状では「日本がやった悪い戦争」という情緒的な捉え方に傾きすぎかなと思います。
「自分の命という危機に追い込まれたら、自分もそうなるかもしれない」って考え方がないと
抑止力としては非常に弱いものにしかならないと思うんです。
ましてや現代っ子、「日本=自分」という意識はほぼないと言って良いと思います。
> 「戦争を忌み嫌う」とは抽象的概念であり、それだけを子供の頭の中に外部注入することが
> そもそも可能とは思えません。「結局戦争とは何なのか」を、情緒に流されない文脈でもって
> 子供が自分自身及び周囲と考え語り合う知的過程を経験した結果として自然に心の奥底に
> わいてくるものと思います。(私の場合はそのきっかけが劇画だったわけですが(汗))
> これは、「作る会」がおりにつけ強調する「愛国心」についても同様と思います。
> 情緒に流されない内省的な知的作業を通じ戦争を考える経験をつめば、おっしゃるような
> 「戦争をした自国または相手国は悪」と簡単に片付けてしまうような皮相で単純な断定に
> はまり込んで安心してしまうような結果にはならないと考えます。
> むしろ、「作る会」の教科書を通低する「日本よい国無謬の国という概念の注入により愛国心
> を涵養する」という側面は、人間の知と感情に対するあまりにも単純な認識であり、ある種
> 傲慢さと危険を感じます。
>
> 敵味方であっても同じ人間で、痛みも喜びも同じように感じる→同等であるという感覚が
> あってこそでは、この愚かしさは何なのかということを、見る必要があるのではないで
> >しょうか。
> この点は、私の「戦争という人間の愚かさの原罪としての失敗に対する冷静な考察」という
> 意識とほぼ同じ認識と思い、同意します。
この点では、ほとんど同じ考え方なのだと思います。
ただ、私は最近の子供たちの考える力は非常に低いと思っています。
良くも悪くも「家庭」や「学校」に囲われてしまっていて、社会経験が少ないのですね。
だから端的に言えば、母親の認識の仕方が「軍備なんて言葉さえもイヤ」という態度だと
鵜呑みにするケースというのが、以前に比べれば結構あるのではないかと思っています。
この分野では、メディアの刺激も少なくなっていますしね。
つくる会の教科書については、議論できない(読んでいない)のですが、
ここまで考えてきて思うのは、教科書自体がもっと参考書的にぶ厚くなってもいいのじゃないかということです。
訳あって約10年間ほど、アメリカ人の私学に通う子供たち(主に中高)とつき合いのあった時期があるのですが、
歴史に限らず、まーともかく教科書がぶ厚い。ハードカバー、A4サイズで厚さ6、7センチはある。
公立校で使用するタイプのものとは違いますし、システムも違いますので
単純に比較できるようなことではありませんが、だいたいが習うことの分量自体にも問題があるのかなと思います。
たった数百年のアメリカ史にこれだけの教科書があるのですからね。
国語や理科、その他教科でも、ちょっと教科書薄すぎ?ではないかと。
とくに歴史では網羅すべきものを削らざるを得ないのは、多面的に見ることの障害になるでしょう。
> 語るということがなければ、共有も託すこともあり得ないですよね。
> 近代以前の戦争、現代の戦争を通じて、その目的の変化や形の変化を知り(違いを知る)、
> > さらに共通項である愚かさ、醜さを知ること。
> 数千年の歴史の中で進歩してきたありとあらゆる事柄と、
> いまだにまったく同じところに留まっている人間の業と言ってもよい部分を対比させる
> ためには、とにもかくにも知ることしかないように思っています。
> このスレを見ても感じますが、語り合い議論するということの基本ができていない
> 人が多すぎますね。教科書問題もさることながら、それこそ「建設的で知的な大人の
> 議論の作法」を学校で教えるべきかもしれませんね。
学校の保護者会なんかでも、同じようなことを感じることがあります。
子供たちの学級会の方がよほどマシかも。
話し合いの場での禁じ手を知らないというか、またはルールがわからないのか……?
たぶんここで問題になっている戦争への認識など、
本来はすべての日本人が議論するべきだった問題を、極度の反省から言及するべきではないと考え、
置き去りにしてしまったことが、議論の実地訓練の場を失わせ、共同体としてのルールやマナーを崩壊させていったのでしょうね。
ある程度の幅はあれど、同じ意味で使うからこそツールになる「言葉」さえ、
「私はこういう意味」で使ってるというマイルールが横行しているのには、時々、辟易とします。
> 伝えることに制限や加工を加えるのは、この場合、大きな誤りなんじゃないかと。
> > 基本的にはどのようなこともそうなんですが、
> とくに戦争については、大人の意見がまとまらないこともあって、
> 結果として伝えるべき量が少なくなりすぎていると考えています。
> 中略
> 先にも書きましたが、教科書だけが問題ではないと思います。
> つくる会の教科書はちゃんと読んだことがないので、論じることはできませんが、
> 過去の歴史教科書に問題がなかったかといえば、それはまた違うでしょう。
> どこかで話題になってましたが、ナポレオンやキリストがでていたとしても
> さほど詳しいわけではないですし、名前だけといってよい程度しか記述はなかった
> > ように思います。
> 仰るとおり、時間をかけて見る必要があると思います。
> できれば、反対するだけでなく、他社の教科書も含め、育てていく方向に持って
> > いきたいものですね。
> おっしゃる通りと思います。
> また、歴史の常として書き手の解釈や心情がある程度反映されることはやむを
> えない点もありますが、特に「作る会」教科書の場合、(少なくとも現行版では)
> 書き手の過度な情緒的思い入れや、一般に認められていない説への肩入れ、
> 歴史教材としてはあまりにも初歩的単純なミス等の面で、「伝えることへの制限や
> 加工」が中等教育の標準教材としての許容限度を超えていると考えます。
> 書き手の政治心情への評価とは別の、純粋な学問的、ISO9001的(笑)疑問です。
教育界にも ISO9001 はあるべきでしょうね(笑)。
教員免許だけで開業できちゃう教師という職業にランク付けを持ち込むのも悪くないかもしれません。
もちろん教科書や建築、その他も同様ですね。
全部は評価できなくとも、ひとつの基準にはなるでしょう。
私は、つくる会がよく使っている言葉である「日本人としての物語」はあったらいいんじゃないかと思ってます。
ただし、物語である以上、非常に優れたものでなくてはならない。
ここが大事なところなんですけどね、なかなか書き手がいないんでしょう。
野坂昭如氏や赤塚不二夫氏が今、病の床にあるのはとても残念です。
> やはり基本は親でしょうし、子供を見守る社会の視線なのでしょうね。
> 我々は社会を作る生き物なので、学校という集団教育の場を持っているわけですが、
> なにも歴史教科書に限らず、いろいろな面で構造的な限界が来ているように思います。
> 関川夏央さんだったか、北朝鮮に関する記述の中で(「退屈な迷宮」だったかな?)、
> 「20歳のバイブル――北朝鮮の200日」(高野生/情報センター出版局)という本に触れ、
> > 「青年たちは学校に行っても悲惨だが、
> 行かなくてもやはり悲惨であるという、現代日本をはからずも体現している本」といった
> > 趣旨のことを書いているのですが、
> 学校の構造を変えていくと共に、社会の子供であるという認識を持たなくてはと思います。
> よその子に話しかけたり、注意するのは勇気が要りますけどね(^^ゞ
> でも、いろいろな大人に揉まれることもいい経験なのではないかと。
> 失敗を恐れて前進を躊躇するよりは、やってみてどうだったかを考えたいなと思います。
>
>
> 村上龍氏の著作(確か「希望の国のエクソダス」、間違っていたらごめんなさい)に
> 「日本は何でもあるが希望だけがない」というくだりがありました。
> 敗戦、戦後の経済成長、バブル崩壊という二度目の敗戦以降の停滞、アジア諸国の
> 成長(とりわけ中韓)という歴史の流れの中で、日本全体に崩れた優越感と閉塞感が
> 蔓延し、昨今、それをナショナリズムの高揚で解消しようという危うい気分が広が
> っているように思えます。
今、本当に出て欲しいのは、では、ナショナリズムとはどうあるべきかを
バシッとひと言で言い表せるリーダーですね。
この言葉自体に幅があるので、なかなか難しいでしょうが、
これからの日本の方向性を叩き出せるような人材が欲しいところです。
私ははからずも海外とのやり取りが多くて、なにかというと
「おい、日本ではどうなんだ?」と聞かれることが多くて思うのですけれど、
たとえば嫌いな方も多い石原都知事なんかの捕らえ方が、
英語世界ではちょっとは話の出来る日本人程度の認識だったりする。
国旗掲揚、国歌斉唱なんかも同様で、アメリカ人だったら何が問題なのかよくわからないんじゃないかと思います。
こういったことをあまり強制的に行うのも問題ありなんでしょうが、
では「しない」という方向の行き着く先のビジョンは、残念ながらぜんぜん示されていないし、
きちんとした議論の場も作られていないし、
さらには自分と違う考えの方々をヒステリックに非難することに終始してますしね。
オリンピックでは許されるのに、学校では問題というのもなんかチグハグだと思いますよ。
現状では右傾化(便宜上、この言葉を使いますが)に反対の方たちが、反対することだけを目的にしてしまっていて
新しい国家としてのビジョンを示せていないことに問題があるように思いますね。
> 戦争に限らず、およそ失敗から学ぶ謙虚な姿勢を失った集団が行き着く先は改めて
> いうまでもないでしょう。米国がいまだに核兵器信仰から脱却できないのは、彼らは
> 原爆使用が失敗だとは絶対に認められないからかなどと、広島原爆忌の今日、考えて
> いました。
>
> ボブディランの「What did you learn in school
> today(邦題:学校で何を習ったの)」
> の歌詞が、妙に現実的に思える今日この頃です。
私は Teach your children ですかね(笑)。
アメリカ人って前にも書きましたが、非常に Naive なんです。
だから、原爆の現実を目の当たりにしたら、大抵の人は震撼します。
ましてやあのテロの後ですから。
確かに「失敗だとは認められない人々」も居ることは居るのですけれどね、
(退役軍人協会とか、全米ライフル協会とかですね)
でも一般人は違いますよ。
この部分では、日本側のアピールがあまりにも少ないことにも原因があります。
要は知らないのですよ。
ここにはいろんな圧力関係があったりするので、日本側が頑張っても制限を加えられることは事実なのですが
でも、それこそインターネットの時代に至っても、あまりにも情報がない。
これは日本人自身が「知らない」ことにも原因があると思いますよ。
それに、やはり何かを伝えたければ、そこにアイディアは必要なんじゃないかと思います。
ある一定の教育プログラムを取れば国費で留学させちゃうとか、ビザの発給が簡単になるとか。
ただ「ヒロシマ・ナガサキの惨状を」と言っても、今や日本人さえ振り向かないんですから。
15年ほど前まで、アメリカではガン・コントロールを言うことさえ難しかったことを考えれば、
まだまだ、変化というのは期待できると思っているのですけれどね。
なにより、他国に伝えるためには、まずは我々自身が必死で話し合わなければいけないと思います。
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【147894】 投稿者: 歴史への姿勢 (ID:v3cqLJ79sbo) 投稿日時:2005年 08月 08日 01:15
こんな事は初めてですし、理由は推測になってしまうので書きません。
今朝私が参考に見ていた、検定教科書のHPのうち1つと、Washington Post(Articleだったと思います)を引用していた方のHPが、Yahoo検索から消えていました。
この前のAnimal Farmさんの引用のものもそうですが、3つとも偶然でしょうか?
ぬるぽさんにご返信する時引用しようと思ったのですが無いので、内容を申し上げてもまた根拠にならず申し上げられません。
この事を書き込めるのも今のうちかもと思い、思い切って書き込みました。
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