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投稿者: 動機が大事だよね (ID:M.zWJSL63bE) 投稿日時:2013年 10月 07日 18:08
大学入学者を学力のみで決めずに他の要素も入れるとなれば中高の教育も随分変わるでしょう。
今までは東大入試はセンター試験圧縮+2次試験440点で合計し点数の多い順に合格者を決めていた。それが学力テストは大まかに5段階ぐらいにして一点刻みをやめ、
1.面接
2.自己推薦エッセイ
3.他者の推薦状
4.課外活動や部活の記録
なども加味されるとなれば駿台模試トップの人も5000番ぐらいの人も共通試験でAゾーンなどに入っていれば学力としては全く同じ扱いになって差はつかない。
ラットレースで一点でも多くとらなければ東大理Ⅲに入れなかったのが・・・・駿台模試で学力テストは1番が他の2~4の結果で落ちることも十分あり得る。
そうなるとAゾーンが5000人ぐらいいるなら・・・・・そのなかに収まればよくなるので中高一貫の優位性(高2ですべて終わり最後の一年は受験演習)はなくなる。(公立でも5000番以内なら結構はいれるかもしれない)
当然中学受験もそういう進学校に行かずとも・・・・・他の要素を大事にしてそこで「人間力」をつくる学校に行けばよくなる。中学受験有名校が東大理Ⅲを半分も独占してしまうという現状も変わるかもしれない。
トップからの改革で加熱した中学受験をやめさせる。偏差値秀才や受験秀才を作る学校は淘汰され真の人材を造る学校だけが生き残るだろう。
この改革は中学受験動向に直結すると思う。公立高校や公立中高一貫などがぐんと有利になると予想する。
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【3192466】 投稿者: 遺伝 (ID:uCV1CIvSAAE) 投稿日時:2013年 11月 30日 12:55
個人的には、公教育という限られた領域に関しては、
国云々の前に個ありき。ということを前提にすべてを構築しないと、
(国はどうでもいい、帰属意識不要、という意味ではない)
今後は、現実との乖離がより大きくなる部分が続出するのではと思ってみたり。
グローバル気になる派と、とにかくドメの充実が先派 では、
そもそもな最初の前提が違っているんだなーと思ってしまった。
あっ、契約社会ではない日本のよさも、わかってはいますよ、私。 -
【3192490】 投稿者: 離陸 (ID:AmDGngLHtbA) 投稿日時:2013年 11月 30日 13:23
日本を中心にグローバルの構造を見れば、
日本から世界に向けての発信の波と、
日本が世界中から受け取る受信の波
が存在し、この波の高さはこれからも益々高くなる。
日本がこの両方の波を防ぐのではなく共存して生きていくことが、
日本が選択する近未来へのコンセンサスであります。
その時点で、国民の英語リテラシーの強化は、
もはや現状を放置して見過ごせないという警告と共に、
必要条件として広く認識されるに至りました。
社会には英語を使わなくても支障のない人々はいますが、それはその人の置かれる環境や境遇の結果であるといえます。
将来世界共通語としての英語を使う機会が大幅に増える以上、将来英語が出来ないことで社会活動に制約が生じる可能性が国民全体に高まり、国の維持に問題があるということで、成果の期待出来る英語教育の改革が必要なのです。
グローバル化を生き抜くもう一つの側面として、
その国(我々にとっては日本)の個性や強みを大切にして維持し、
それらを武器にして世界に向けて発信し、世界の人々が日本に魅力を感じさせることも必要です。
昨今は、従来の工業製品、省エネや環境技術だけではなく、日本食、漫画など日本文化などCool Japanのアピールにも力を入れています。
自由さんが、上で言われた、
> 日本語強化による日本社会の再構築である。
> 言葉が概念を作る・・社会も同じである。
という点には概ね異存はありませんが、
付け加えるとすれば、
言葉を拠りどころにしてその地域に生きる人々が、地域社会をより良くするために考え共有する慣習や理念みたいなものを育てることを考えたい。
それは、自分たちで考え行動し勝ち取った規範として、その社会生活に深く根付きます。上から強制的に与えたり、単に外国から制度や文化を導入するのでは、借り物で表層的なものとして使われるに過ぎないでしょう。
「個」から「市民」への移行、そして更に大きな共同体としての日本「国民」として、何を大切にするかを考え、それを芯にする教育を展開することも、グローバルの中で日本を立たせるために大切だと考えます。欧米社会では明らかに中世の市民運動が現状の社会制度や慣習を育んできて市民意識として根付いていますが、日本の場合、明治維新、大戦での敗戦から復興の時期に日本社会に外国の制度や文化を大量に取り入れてきたため、日本人として共有する市民意識が欠如しているのが正直なところであり、それを見つけるといっても難しいものがあります。個人的には、社会規範としては儒教的な道徳感(はっきり言ってよくわかりません)、礼儀ある振る舞いや約束を守る責任感、緻密さ、文化面では、健康的な日本食や自然と共生する生活や建築様式、簡単な漫画での表現 などが思い浮かびます。
● 日本と世界との境界に置いて国際共通語として必要な英語教育
● 日本人が地域、日本社会をよくするために共有する意識を具現化していくための総合的な国語教育
このふたつのが両立することが必要なのでしょう。 -
【3192496】 投稿者: 自由 (ID:QjUbRvIBaxk) 投稿日時:2013年 11月 30日 13:47
神との関係において人には誰にも奪いえない自然権があって、教育権もそのひとつてあるが、親だけではこの教育権を完全に行使しえないので国家に社会契約により教育権の一部を委託する・・これが本来の公教育である、
公教育とは国家と個の関係であって、国家抜きの公教育はありえない。
公教育以前に、自然権・・神との個の関係で、神の位置が空洞なのが日本社会であって、自然権の観念が希薄なのである。
遺伝君が、個ありき・・と観念するのは、公教育の問題ではなくて、自然権の問題である。 -
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【3192525】 投稿者: 現実 (ID:mYOwkIVxlYQ) 投稿日時:2013年 11月 30日 14:32
自由さん
おっしゃる通り、通じないですねえ。
そもそも「公教育」という概念・用語は議論の多いものであって(フランスとアメリカでは全く異なる意味で使われている)、日本における「公教育」が具体的に何を指すのか定義してから論ずるべきところです。僕はこれを日本が国の政策として行う教育を指すものと理解すると言っています(教育学者の一般的定義。教育社会学者は学校教育に限定しがちです)。
自由さんはどのように定義されるのですか。僕は、一般国民が日常生活に必要なもののみを抽出して「公教育」と呼ぶという自由さん独特の定義だと思っていました。それなら公教育が一般国民の日常生活に必要なものであるべきだというのは、トートロジーではあるけど(あるだけに)反論の仕様はないなと思ってましたましたが、コンドルセですか...。
僕の理解では、自由さんのコンドルセ理解は一面的です(残念ながら日本語での解説本しか読んでいませんが)。ここでコンドルセ論をやってもしょうがないので、簡単にいきますが、彼の主張の核は①教育は親の権利・国家の義務(おっしゃる通り社会契約説的)②知識・客観的真理中心の教育内容(革命以前の教会中心のキリスト教的徳育の否定)③教育の平等による経済的平等の達成、の3点。これをベースに、初等教育から高等教育に至る「知識」教育体制の改革案を出したわけで(採用されませんでしたけど)、公教育は一般国民の日常生活に必要なものであるべし、という契機はかけらもありません。
わざわざ引用されたからには、どこぞでやられていたように、コンドルセの理解なんて問題じゃない!というのはナシにしてくださいね。もしそうおっしゃるなら、コンドルセなんて引き合いに出さず、私はこう考える、で良いはずです。
>大学生は、スティッグリッツ・マンキュー経済学、クレイナー経営学・・サンデルの授業くらいは英語で聞ける力が必要。そうでないと日本の大学教育・高等教育の惨状は変わらないですよ。
一例として、東大駒場の方法論基礎~専門課程の最初に使う教科書を挙げました。つまり高等教育の入り口の話でマニアでも何でもないです。社会科学を学ぶものは須らく理解しているべきレベルの話です。世界の大学の教養課程でも使われている基本的なもので、原書で読む限り誤解の余地は殆どないんですが、原書以外で読んでいるのは僕の知る限り日本だけで、明らかな誤訳も多く、翻訳者の理解不足で意味が取れないところも多くある。サンデルの講義にしても、NHKの訳は全くお話になりませんし、翻訳本も通俗的翻訳です。それが日本の高等教育の実態です。
なぜこんなことになるかと言えば、中高で実用に足る(しつこいですが英会話じゃないですよ)英語を習得できるようになっていないからです。高等教育に入った途端に困っているわけです。
日本は母国語で高等教育が出来る稀有な国とふんぞり返るなら、翻訳本・欧米で作り出された概念・理論を一切使わずにやるべきで、海外の内容を誤解ないし薄めただけの内容をやっておいて言えることではありません。 -
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【3192532】 投稿者: 日本語大好き (ID:gJ/.R/96VwQ) 投稿日時:2013年 11月 30日 14:43
>日本は母国語で高等教育が出来る稀有な国とふんぞり返るなら、翻訳本・欧米で作り出された概念・理論を一切使わずに>やるべきで、海外の内容を誤解ないし薄めただけの内容をやっておいて言えることではありません。
賛成です。特にこれができていないのが経済学。
近代経済学はアメリカの経済を説明するために作られたアメリカの学問なのに、マンキューとかスティグリッツとか有難がって読んで日本の経済を語ろうとしているところに無理があります。
アメリカの理論は教養・たしなみとして勉強する程度にして、まずは日本の経済をしっかり説明できる日本独自の経済学を組み立てるべきだと思っています。
日本人の行動原理は必ずしもアメリカ人の行動原理と同じではないので、日本独自の理論の組み立てが必要です。
海外の学問を「輸入」する程度で満足するレベルの学者は即刻やめるべきでしょう。 -
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【3192539】 投稿者: 自由 (ID:QjUbRvIBaxk) 投稿日時:2013年 11月 30日 14:52
そこが、東大のダメなところであろう 笑
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【3192548】 投稿者: 自由 (ID:QjUbRvIBaxk) 投稿日時:2013年 11月 30日 15:00
神←→人間・・自然権という概念、価値体系が組み込まれている英語と、
神の位置が真空の日本語では、
そもそも個の意味が違うのだから、
欧米から輸入した英語の文献をいくら読みあさっても、日本社会を分析できるようにはならない。
なんでも、英語の文献!、英語の文献!とありがたがるのは、ナンセンスである。 -
【3192560】 投稿者: 現実 (ID:4AofBSv9Hlk) 投稿日時:2013年 11月 30日 15:18
日本語大好きさん
確かに経済学は最もひどいですね。個人的には日本人経済学者では古くは森嶋さん、最近だと岩井さんが図抜けていると思いますが、森嶋さんは活動の中心がロンドンになってしまっていたし、岩井さんも学位はMIT。最近の学者は専門領域が狭すぎて、アメリカの学者とはモノが違いすぎます。経営学にしても野中さんだけは別格に天才的でしたが、学問以外のところに行き過ぎてしまいました。’
他の学問でも、多かれ少なかれ事情は同じ。哲学が一番ひどいんじゃないですか。井上さんとか、大森さんは独自の哲学を展開できたけど、最近の学者なんて海外哲学者の解説ばかりでしょう。しかも間違いだらけだし。
ただ、スティグリッツ・マンキューを有り難がって日本の説明をしようとしているというのは、公平に見て事実ではないと思います。2人のアプローチは帰納的なスティグリッツと演繹的なマンキューという違いはありますが、いずれも、社会科学に共通の財産としての経済学的なものの考え方を高度なレベルで発信していることに価値があり、日本でもそのように受け止められていると思います。
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