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【194704】おもな開成OB

投稿者: 名門校のOB   (ID:QGUMFqwJG3.) 投稿日時:2005年 10月 14日 13:23

開成OBはすばらしい

政治・官僚
下条みつ (1974) - 政治家、衆議院議員(民主党)。初代経団連会長・貴族院議員の石川一郎の孫。賞勲局総裁・文部大臣の下条康麿の孫。厚生大臣の下条進一郎の子。
岸田文雄 (1976) - 政治家、衆議院議員(自民党)。衆院議員の岸田文武の子。

財界
渡邊恒雄(渡辺恒雄) (1943) - 読売新聞グループ総裁、読売新聞代表取締役社長・会長・主筆、読売巨人軍オーナー、日本野球機構オーナー会議議長、横綱審議委員会委員長、「ナベツネ」
林吉之助 (1961) - オリジナル設計常務取締役
岡本恒夫 (1964) - 呉羽化学取締役・総合研究所長
秋本英明 (1968) - 大和総研常務理事・取締役
松本大 (1982) - マネックス証券社長
吉野英樹 (1993) - GABA社長

法曹
増田晋 (1974) - 弁護士(森・濱田松本)、高額納税弁護士(2002年度、東京)第138位、大宮法科大学院大学教授
長沢幸男 (1977) - 東京高裁判事
岩倉正和 (1981) - 弁護士(西村ときわ)、高額納税弁護士(2002年度、東京)第10位
古川俊治 (1981) - 弁護士、

学者
伊豆山健夫 (1950) - 物理学者(物性基礎論、統計力学、天体物理理論)、東大名誉教授、開成中学校・高等学校校長、理化学研究所研究員、荒川区教育委員長、米MIT研究員、米ノースイースタン大学客員教授、日本物理学会理事、開成高校校長としての実績を買われ、トヨタはじめ中部財界が総力をあげて設立した中高一貫校「海陽学園」(2006年開校)の校長に招聘される。
池田真朗 (1968) - 法学者、慶大法学部教授、司法試験考査委員
森田朗 (1970) - 東大公共政策大学院教授
岩原紳作 (1971) - 東大院法学政治学研究科教授
酒井信介 (1971) - 東大院工学系研究科教授
豊田秀樹 (1980) - 統計学者、早大文学部教授
中島峰広 (元教諭) − 人文地理学者、早大教育学部教授、早大大学院教育学研究科委員長

医学
石井秀忠 (1961) - 大塚美容形成外科院長
永井良三 (1968) - 東大医学部附属病院病院長
古川俊治 (1981) - 慶大医学部外科助教授、慶大法科大学院助教授、弁護士

文学
長谷川如是閑 (1889) - 評論家、貴族院議員、文化勲章
辻潤 (1901) - 作家
斎藤茂吉(斉藤茂吉) (1901) - 歌人、文化勲章
中村真一郎 (1935) - 作家
福永武彦 (1935) - 作家
虫明亜呂無 (1941) - スポーツ評論家
荻昌弘 (1943) - 映画評論家
野上龍雄 (1945) - 脚本家
吉村昭 (1945) - 作家
逢坂剛 (1962) - 直木賞作家
松浦寿輝 (1972) - 芥川賞作家、東大教授
岡田悦哉 - 作家
福士幸次郎 - 詩人(青森県立第三中学を中退後に上京し開成中に編入されたが、ただちに退学)

芸術
寺島尚彦 (1949) - 作曲家(『さとうきび畑』)
岡村喬生 (1950) - オペラ歌手
蜷川幸雄 (1955) - 演出家、映画監督
猪俣公章 (1957) - 作曲家
永沢まこと (1959) - イラストレーター、画家、読売新聞「よむヒト図鑑」連載

マスコミ、
松永邦久 (1963) - TBSアナウンサー
桜井均 (1965) - NHKエグゼクティブ・プロデューサー
吉田伸男 (1985) - フジテレビアナウンサー
平野勝彦 (1963) - 日経BP常務取締役、

軍人
秋山真之 (1884) - 海軍中将、日本海海戦参謀として日露戦争勝利の立役者となる、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」の名言でも知られる、開成で同期だった正岡子規とともに司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』のモデルになる。
岡田啓介 (1885) - 第31代内閣総理大臣、海軍相、逓信相、拓務相、海軍省次官、海軍大将、2.26事件時の首相、娘婿で総理秘書官の迫水久常(大蔵官僚、後に参議院議員、経済企画庁長官、郵政相)の機転で岡田首相は難を逃れるも当時師弟で内閣を構成していた蔵相・高橋是清(開成高校初代校長、第20代内閣総理大臣)は凶刃に倒れる。
山口多聞 (1909) - 海軍中将、日本海軍連合艦隊提督、ミッドウェー海戦の名将(「山口に全軍を任せていれば間違いなく日本が勝っていた」)

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  1. 【510972】 投稿者: 追伸  (ID:BCmPnQMRkKg) 投稿日時:2006年 12月 02日 18:26

    当時は旧制中学修了後、旧制高校・大学予科・旧専門学校等への進学の道が開かれていた訳ですが、当時のこれらの合格者数で開成は全国でもトップクラスであったそうです。
    リベンジに燃えた生徒が多かったのかもしれません。
    もっとも府立一中修了者は圧倒的に旧制一高希望者が多く残念組も多数であったこと、開成から旧制一高への進学者はそれほど多くなく他の高等学校への進学者が多数であったのも事実のようです。
    やはり一高で他の一中修了者と一緒になりたくないという気持ちが強かったのではないかと思います。

  2. 【510979】 投稿者: 追追伸  (ID:BCmPnQMRkKg) 投稿日時:2006年 12月 02日 18:47

    確かに渡邉恒雄氏が四修で進学した東京高等学校はそれまで受験しなかった学校ですね。
    ちなみに配属将校は軍備近代化のために断行された宇垣軍縮でリストラされた将校の受け皿として機能しました。

  3. 【511432】 投稿者: 3日付「私の履歴書」  (ID:BCmPnQMRkKg) 投稿日時:2006年 12月 03日 17:47

    このスレで議論するのは不適当かもしれませんが・・・
    3日付の「私の履歴書」旧制東京高等学校での渡邉恒雄氏の経験談です。
    かいつまんで説明すると、
    ・秋の記念祭、私と仲間は打ち合わせ通り校長等軍国主義を鼓舞する主要メンバーを襲った。
    ・翌日学校は大騒ぎ、密告される前に放校覚悟で名乗り出る覚悟を決める。
    ・ところが、騒ぎに加担していない思わぬ人物が名乗り出る。
    ・文甲級長、続いて理甲級長、さらに二年生まで47名も名乗りでる。
    ・連判で退学届を書くが、学校側が数と顔ぶれに逆に慌てる。
    ・結果全員不問。
    先頭に立つ者は瞬時に先を読んで決断する。
    その決断が組織の生死を分ける。
    自分を振り返って深く溜息をついてしまいました。


  4. 【512502】 投稿者: 4日付「私の履歴書」  (ID:BCmPnQMRkKg) 投稿日時:2006年 12月 04日 23:55

    当時の東京帝大への進学率は意外ですが
    旧制浦和高等学校>旧制武蔵高等学校>旧制第一高等学校
    の順番であったそうです。
    旧制第一高等学校の東京帝大への進学率が低かった原因は法学部志望者が多数であったからだと言われています。
    旧制武蔵高等学校は今では考えられませんがスパルタ教育で有名であり成績不良による退学者が多数であったとのことです。このため東京帝国大学への進学率が旧制第一高等学校を凌ぐ結果となっったと言われています。
    ちなみに旧制浦和高等学校への進学者数?1は開成中学であったのはあまり知られていません。

  5. 【512526】 投稿者: 4日付「私の履歴書」  (ID:BCmPnQMRkKg) 投稿日時:2006年 12月 05日 00:24

    渡邉恒雄氏は昭和20年7月応召にて陸軍二等兵となった訳ですが氏は文学部であったため短現への道は開かれていませんでした。
    短現の戦死率は意外に高く20%程度とも言われていますから振り返ってみると必ずしも安全な道ではなかったとも言えます。
    短現の戦死者が多数であったのは、主計尉官として艦船と運命を共にした方が多かったからであると言われています。
    当時徴兵から逃れる確実な道は東京帝大工学部造兵工学科進学でした。
    戦後は再編により精密機械工学科となりましたが同窓会は造兵精密同窓会として一体でした。
    造兵進学者は非常に誇り高い方が多く民間へは行かず、大学に残った人が多いとのことです。

  6. 【518467】 投稿者: 正確な事実認識を  (ID:9KOEPmAz7eo) 投稿日時:2006年 12月 12日 00:47

    つまり さんへ:
    -------------------------------------------------------
    >同氏は軍人嫌いであったようですがその家庭環境からみて幼年学校受験は有り得なかったでしょう。

     幼年学校の受験は中学1年相当です。いったん中学に入学してから幼年学校を受験し、合格したら中学を退学して幼年学校に入校するのです。中学受験か幼年学校受験かという選択ではありません。


    > 東京高等学校が旧制中学への門戸を開いていたというのはあまり知られていないことです

     いえいえ東京高校は尋常科(中学相当)と高等科(高校相当)に分かれていたのです。当然、高等科も募集していました。あまり知られていないどころではありません。常識です。武蔵高校、府立高校も尋常科、高等科で構成していた点で東京高校と同じであります。尋常科を設けていた高校はきわめて少なく、通常の中学へ入るより高校の尋常科に入るほうが難しかった。高校の尋常科に入学できれば、大学(帝国大学)までエスカレーター式に上っていける、超難関といわれた高校入試を回避できると考えられたため、渡邊氏のごとく東京の教育熱心な家庭では子供を尋常科のある高校を受験させたのです。

    >4修で途中入学は極めて困難であったわけですから、同氏が最優秀であったことは間違いありません。

     4修での高校合格は秀才のシンボルでした。ただ、珍しいケースでは決してありません。5卒(小学5年)で中学入学したのと似ています。要するに戦前の飛び級制度を実践したわけです。


  7. 【518528】 投稿者: 間違っている  (ID:CxjqPWHAXE2) 投稿日時:2006年 12月 12日 08:09

    正確な事実認識を さんの事実認識も間違っています。面倒くさいので、どこが間違っているかは指摘しませんが、旧制高校について書かれた本が新書で出ていますから読んで勉強してください。

  8. 【519139】 投稿者: 正確な事実認識を  (ID:9KOEPmAz7eo) 投稿日時:2006年 12月 12日 22:41

    間違っている さんへ:
    -------------------------------------------------------
    > 正確な事実認識を
    > さんの事実認識も間違っています。面倒くさいので、どこが間違っているかは指摘しませんが、旧制高校について書かれた本が新書で出ていますから読んで勉強してください。

    文春新書「旧制高校物語」(秦郁彦著)ならもちろん読んでます。面倒くさいといわずに、間違いがあるなら指摘したどうでしょう。


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